「弱さ」の逆説−役に立つということ

 

奨励

木原 活信〔きはら・かつのぶ〕

奨励者紹介

同志社大学社会学部教授

研究テーマ

社会福祉の根源や根底にある思想や哲学とキリスト教との関連について

 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(コリントの信徒への手紙二 一二章九−一〇節)

 

 

 

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(コリントの信徒への手紙二 一二章九−一〇節)

 

はじめに

 皆さん、おはようございます。ただいま、ご紹介にあずかりました社会学部社会福祉学科の木原と申します。昨年の四月に東京都立大学より同志社大学に赴任してきました。同志社はキリスト教主義であり、今日は、このような場でキリスト教の文脈でお話ができることを嬉しく思っています。私自身は一人のクリスチャンですが、ずっとこれまで東京都立大学という公立大学に勤務しておりましたので、信仰の事柄について、学生たちの前で自由に話をすることは、プライベートな場合は別として少々複雑で難しいこともありましたが、今日は同志社大学キリスト教文化センター主催ということもあり、キリスト教の観点で自由にお話をさせていただきたいと思います。

 さて、私は社会福祉学の中でも、特にキリスト教と社会福祉実践の思想的関連を追求しています。今日は、その中でも皆さんには違和感があると予想されますが、「弱さ」ということについて一緒に考えてみたいと思います。なぜ違和感があると思うのかは、そのテーマ自体が、皆さんがおそらく期待しているであろう「強さ」の逆だからです。「弱さ」ということは、私自身の信仰の実存的テーマでもあり、同時にそれは社会福祉学を研究する学問としての研究テーマでもあります。おそらく同志社のなかでも「弱さ」を研究テーマにしている人はいないでしょうし、日本の研究者の中でもそう多くはいないでしょう。しかし、最近この弱さというテーマは、幸か不幸か知りませんが社会福祉学や神学、哲学の中でもとりあげられるようになりました。たとえば、私自身もその思想を研究していますが、ヘンリ・ナウエンという神学者、福祉実践家などはその例です。あるいは、北海道のベテルの家という精神障がい者福祉の領域でも弱さの実践思想がとりあげられています。

パウロと弱さ

 さて、冒頭に聖書の朗読がありましたように、実はこの弱さの問題は、今からさかのぼること約二千年前、キリストの使徒であったパウロという人が彼の実存をかけて取り組んだ問題であったようです。

 この聖書の記述の前を読みますと、パウロは、その前のところで、「肉体のとげ」「身に一つのとげ」を去らせて欲しいと三度神に祈ったというのです。これが具体的に何を意味するのかは神学者の間でも意見が分かれているようですが、実際の肉体の何かの病気、特に目の病気ではなかったのかという説、あるいは彼のてんかん発作などの症状や霊的な深刻な問題|それが具体的に何かは私もよくわかりませんし、それが何であったかはここでは必ずしもそれほど重要ではないと思います。ただ彼が大変苦悩と試練ある状況に追い込まれていたというのは事実で、その状況を避けたい、それから逃れたいと懸命であった様子はわかります。そしてそれを去らせて欲しいと三度も真剣に神に祈ったというのです。ここで大事なことは、彼が避けたい、取り除きたいもの、つまりそれというのは、彼の「弱さ」であったということです。彼にとって認めたくない欠点、弱点といっていいかもしれません。その中からパウロが知り得たことは、弱さの自覚とその逆説というものでした。これは仏教でいえば「悟り」のようなものでしょう。それはどんなに努力しても改善しない、治らない、そのままであるが、それが問題でないばかりか、今、朗読されたように「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」)(コリントU 一二章九節)という神の言葉の啓示を受けたというのです。

 つまり、自らの弱さ、欠点の中に、神の力が充満するというのです。冷静に考えてみると、実に大胆な発言です。さらにこの後、彼は、「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」。「私が弱いときにこそ、私は強い」とまで言ってのけるのです。

 これは彼の強がりなのでしょうか。イソップ物語のすっぱいぶどうの話をご存知でしょうか。心理学的にいう合理化のようなもので、本当は、強さがいい、でも状況が変わらないから仕方ないので、弱さに甘んじておこう。そうしないと自分がみじめになるから・・・そういうものだったのでしょうか。いや、私は、決してそうではなかったと思うのです。彼の生涯を支えたもの、それがこの弱さの逆説、これを神の恵み、恩寵であると彼は言うのですが、この弱さ思想であったように思うのです。

現代社会と弱さ

 神の恵みが完全に現れる姿、それはむしろ「弱さ」の中にこそあるという、このパウロのメッセージはそう簡単に実感できません。物理的にはこんな説明が可能でしょう。人間が無力であると、つまり無力状態の器であると、それだけ神の恵みが充満しやすい。つまり空の器であればあるほど、神の力が宿りやすいということです。

 しかし、そうはいっても、武豊のディープインパクトに熱狂しても、誰もハルウララに憧れる人はいないでしょう。誰も弱さに憧れる人はおらず、現代社会は、むしろ強さやパワーへの執着傾向は根強く、弱さに冷ややかであり、このメッセージは現実感に乏しく感じられます。「○○力」の形成・獲得というのは、メディアを通じて、我々の中に飛び込んできます。現代の力や強さへの憧れは相当のものです。その前提にあるのは、強くなければならないという「眼差し」です。あたかも競技者のように。しかし、そのゴールは設定されていない。強くありたい、力を付けたいという想いは自然の感情であり、教育目標として位置づけられることはあたりまえのことでしょう。しかし、強くありたいというのと、強くあらねばならない、というのは別問題です。

 皆さんご存知の尾崎豊さんという、若者にカリスマ的な影響を与えた歌手が、「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」と歌っていますが、それは、ある面で、現代社会の思想を彼なりの短い言葉で反映したものだと思います。自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の神であると考えると、確かに、勝ち続けることによってしか自分を正当化できません。そうなると、それは無限の競技者であり、結局、破滅してしまうのではないかと思うのです。そういう人にとって弱さを認めることは、自己否定以外の何物でもないでしょう。かの哲学者ニーチェも、キリスト教と徹底的に対峙し、弱さを徹底的に否定して超人という思想を導き出しましたが、それは現代社会の預言的メッセージであったのかもしれません。

 しかし、本当に私たちは、そういう強さと力だけで生きていくことができるのでしょうか。私は最近、福祉の臨床を通じても、学問を通じても、自分自身を通してもこの強さや力に大いに疑問をもっているのです。

母の障害と弱さ

 卑近な例ですが、私の義理の母は、数年来、小脳偏性症という神経難病で小脳が機能しなくなり、運動ができなくなってきました。のみならず多発性骨髄腫も重なり、介護保険制度でいう要介護度五の最重度であり、また重度の障害認定をされている状態です。福祉関係者の方がおられたらその数字だけで母の状態がよくわかると思います。そのため、文字どおり、自分で何もできない状態です。自分で食べることも、排尿もできません。最近ではしゃべることも、呼吸することも、まま成らぬ状態になっております。そのようななかでも、神に対して感謝をもってアーメンとお祈りをして感謝をすることが唯一できることですが。

 現在の母は、重度障がい者、要介護老人、といわゆる社会的には弱さの極致であろうといえます。人に支えてもらわなければ生きていけない、そのような状態です。他者のために何かできるか、自分のことすら何もできない状態です。社会福祉では自立、ということが政府の施策になっていますが、そのようなことを私も社会福祉学者として学生に教えてきたのですが、母のような最重度の障がい者にとって自立とはいったい何なのか正直よくわからなくなってきました。ところで、この母は、誰かの何か役に立つかというと、正直決してそうではありません。いや家族の介護やケアは大変です。特に娘である妻は大変です。目下、激しい腰痛で悩まされ通院しています。そうであれば母は周囲に迷惑だけをかけて、役に立たない人間なのでしょうか。

ある自閉症児のこと

 ところで、先日、六歳になる自閉症の甥の通っているキリスト教系の障がい者施設のクリスマス会に招待されて参加したときのことでした。彼は、現在、療育活動をしていますが、今回、クリスマス・ページェントでヨセフ役をやることになりました。通常でいう会話ができない彼がどうやってこの大役をこなすのか、実は当日までイメージがつきませんでした。彼は普段じっとしておれず、こだわり行動がきつく、人の前で劇などやれるのか、半信半疑でした。自閉症の症状は現在、幅広く分類されており、定義が専門家でも分かれており、その症状もまちまちですが・・・。

 さて、期待と不安の中、ヨセフが登場しました。ヨセフがマリヤと一緒に、宿屋を探す場面で、彼は、「うおー」と一声を発しました。そして博士たちの礼拝と贈り物を受ける場面でも、同様に「うおー」と三度、堂々と語り、劇の間中じっと座っていました。これには正直驚きました。現代社会の「力や強さ」の尺度でいえば、無視されてもおかしくないほどの「弱い、無力な」一言だったかもしれませんが、彼を知る者にとっては、それは驚きであり四年間のこの療育での確かな成果であったといえます。彼の母親の目には涙がこみあげているのが見えましたが、これがすべてを物語っていました。観客を見渡すと、我が子を撮影しようとするビデオ、カメラの数は幼稚園や小学校の劇などと比較にならないほどです。我が子が登場すると、たとえそれが「うおー」の一言であろうが、寝たまま何もしゃべらなくても、親は必死に我が子の姿(存在)を見つめ続けているようです。ここには他と比べて強さを求める競争意識の「眼差し」はない。これは、存在そのものを、only oneとして見つめる神の「眼差し」に近いのかもしれないと思いました。

 客観的に言うと言葉のない、まるで無声映画のようで、正直にいうと、今まで見た降誕劇のどれよりも、演出も演技も「最低レベル」「弱さの極み」であったのは事実です。しかしそこにはこれまで見たどの降誕劇よりも、むしろクリスマスの本当の意味を伝えるリアリティが充満し、不思議な「神聖な」感覚にとらわれたのは、甥の成長に感嘆した感傷のせいだけではなかったようです。朗読される聖書の箇所、「暗闇にいる人たちに光が照らされ」「宿屋には彼らの場所がなかった」「馬小屋に」・・・というその舞台は、人間の競争社会から外された周縁に生きる者の必死な「弱さ」の叫びの場であるが、それが神の恵みの座となったということなのです。実はそこにこそ、ナザレのイエスの地上の生涯の鍵があるように私は思うのです。神であるイエスが地上に降りてきて、人間の姿となった、これは神学的には受肉といいますが・・・しかもそれは、人(親)に支えられなければならない赤子として産まれたというのです。このナザレのイエスは、最も弱い立場にいる者の近くにおられ、マリヤが預言したように、「権力あるものを引き降ろし」「低いものを高くあげる」方に他ならないのです。

 この逆説的な弱さのなかにこそ、パウロが、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と断言した福音の真理が隠されているのです。「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」「私が弱いときにこそ、私は強い」と大胆に叫ぶことができるのも、パウロの見栄や男の意地からではなく、彼自身がイエス・キリストの姿そのものから知った実体験であり、そしてそれは聖書が語る普遍的メッセージであるといえます。

役に立つということ

 ところで、皆さんは、「働かないアリ」の話を聞いたことがありますか。これは北海道大学農学研究科の長谷川英祐さんが数年前に学会発表して話題になったものですが、新聞や報道でも聞いたことがあるかもしれません。それによりますと、カドフシアリ三十匹がいる巣のコロニーをずっと観察と実験していてわかったことには、働かないアリがいるというのです。変な話ですが。

 まず、観察結果として、その群れのアリの約八割は「女王アリやその卵をなめる」「巣の掃除」「エサ取り」などの労働するアリであった。働くアリは常に働いていた。その群れのアリの約二割は「動かない」「自分の体をなめている」「何もせず移動している」だけであった。働かないアリは働くアリから、エサを口移しでもらっていた。そこで、以下のような実験をした。働くアリの中でも特に働きのよい六匹を取り除いた。すると、次に仕事熱心なアリたちの層の労働量が増えた。しかし、働かないアリは変化なく依然として働くことはなかった。次に別の実験では、働かない六匹を取り除いた。すると、よく仕事をしていた数匹の労働量が若干減った。

 この話は、あくまでアリの話ですが、我々の人間社会に役に立つということ、を考えさせられます。人間様がアリに教えられているようではいけないのですが・・・。役に立つということは、目に見えて、生産性をあげる、というそれだけの基準で考えがちだからです。ところが、果たしてそういう基準が絶対の物差しなのでしょうか。働かないアリを取り除くと熱心に働いていたアリの労働力が落ちた、というこの実験結果は興味深い話です。「わが意を得たり」と、皆さんがその結果だけを職場に持ち帰って、怠慢のすすめとなるとこれは困ったものですが、しかしここには妙に親近感を覚えます。

 そもそも生産性のみが役に立つという、すべてを図る物差しかというと、これには疑問があるのです。いやもしそれしかないというのなら、そこには問題が生じるのではないでしょうか。役に立つということを考えるには、様々な多様な基準があってしかるべきではないかと私は思うのです。我々の現代社会は、ただ能力や行動(doinghaving)で評価しているのです。しかし果たしてそれが絶対の基準なのでしょうか。いやむしろ、存在すること(being)を見つめる視点と眼差しをもたねばならないのではないでしょうか。現代社会が最も忘れてしまっている視点です。

 詩人の金子みすずさんがこのように詩を書いています。

わたしが両手をひろげても

お空はちっともとべないが、

とべる小鳥はわたしのように、

地べたをはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、

きれいな音はでないけど、

あの鳴るすずはわたしのように

たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、

みんなちがって、みんないい。

 単一な価値観ではなく、多様な価値観が認められる世界、このことは役に立つということ、弱さということを考える上でもキー(key)になるように思うのです。冷静に考えてみると、案外、役に立つと思っていたことは大したことはなく、むしろ役に立たないと考えがちなことが役に立つことは大いにあるのです。大学のゼミナール、サークルや家庭や職場、近所で自分は役に立っていると思っている人が案外、不遜で人間関係を損なっていたり、そういうことは皆さん実感としてもっておられることはないでしょうか。逆に、自分は弱くて、大した存在でなく、皆に迷惑をかけて申し訳ないと自覚している人が、実際はなくてはならない、というようなこともあるのではないでしょうか。その人がいるだけで・・・とはよく聞く話です。

 先ほどの自閉症の甥のこと、母のことを考えてみますと、世の中の役に立つという基準で考えるなら、それは典型的な弱さの極みであり、「何の役にも立たない」とののしられるかもしれません。しかし、彼らの能力や行動(doing)(having)ではなく、存在すること(being)、それに目を向けると、全く違う観点がみられるのかもしれません。

 母の状態を通じて、ケアをすることは確かに大変ですが、ケアの意味を真に教えられ、存在するということのすばらしさを、文字どおり教えられたのは、他でもない、ケアを語り、福祉の専門家として偉そうに語っていた社会福祉学者の私でありました。これまで数多くの論文や書物を書き、また福祉実践を通して、すっかり専門家のつもりでいた私ですが、生身の身内の人間の存在そのものに迫ること、これは母がくれたプレゼントです。その意味で、私にとって役に立つことこの上なしです。また甥からは、些細な物事に囚われてしまい、自意識過剰で背伸びして強さと力に生きてしまう私に、生きることの意味について、人間の弱さとその存在について教えられます。また弟夫婦は、ケアが実際大変なのですが、自閉症をもった息子を通して、家族や夫婦の意味を教えられているように思えます。彼は、実際役に立たないのでしょうか。いや決してそうではありません。弟夫婦を見ていると、きっと彼らは自覚がないでしょうが、この子が生まれて随分、人間としても成長し、大人になったと思います。大江健三郎さんも、息子さんの光さんの障害という弱さを通じて、人間としてまた文学者として成長したと述懐されておられますが、これはそれに自覚的かどうかは別として例外的な実感ではなくケアする者が得る共通の「報酬」ではないでしょうか。

むすび

 今日は、弱さを通して、日ごろ教えられていることを、色々とお話しました。弱さを通して私たちが学ぶことは、結局は、誰かが弱くというのでなく、私たち人間は、共通に弱くもろい器だということではないかと思うのです。そしてそれは決してマイナスではなく、いやむしろ私の場合、逆説的に「役に立つ」とは何なのか、それ自身にも改めて疑問をもち、そして生命や生きることの神秘を教えられる気がするのです。弱さに目を向け、ケアし、されるときに、役に立つ、役に立たないということを超越させる存在そのものに目を向ける何かがあるのです。そして弱さとは、人間の深さと同様に、奥深く、そしてその深い井戸の彼方は、人間を超えたスピリチュアルなもの、私の場合、それは弱さを担われるイエス・キリストですが、それは究極の神に出会う深遠な場所、そう思えてならないのです。

 最後にお祈りさせていただきます。

 父なる神様。今日私たちはこの同志社のチャペルに集まり、弱さということについてともに考えることができましたことを心より感謝します。私たちは、実は一人ひとり弱い存在でありますが、それは決してマイナスではなく、それを知り、認めるときに計り知れないあなたの恵みにあずかれる機会と場所であることを知り、感謝します。まさに、パウロが言いましたように、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言うとおりです。この場をあなたが守り導いてくださったことを心より感謝して、主イエス・キリストの御名によって感謝をもってお祈りします。アーメン

二〇〇七年一月十日 水曜チャペル・アワー「奨励」記録