存在と愛必要なことは一つだけ

 

奨励

木原 活信〔きはら・かつのぶ〕

奨励者紹介

同志社大学社会学部教授

研究テーマ

福祉やソーシャルワークの根源にある思想や哲学とキリスト教との関連

 

 

 

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

(ルカによる福音書 一〇章三八四二節)

 

愛されるということ

皆さん、おはようございます。社会学部の木原と申します。いきなりですが、皆さんは、生まれたばかりの赤ちゃんにとりまして、まず必要なことは何だと思われますか。私には三人の子どもがいますが、すでに大きくなって振り返ることもできないような状況ですけれども。私の経験からしましても、それは無条件でその子の存在そのものが愛されること、そして赤ちゃんがそのことを身体全体で体得することではないのかな、と思います。
エリクソンという心理学者をご存じでしょうか。「三歳までの宿題は、両親から無条件に愛されるということ。これによって信頼感をかち得るのだ」と言っています。そしてそれがその後の人生のなかで決定的な影響を与える、と教えています。つまり人間は、存在そのものが愛されないと基本的な信頼感は育たないのです。これがうまくいかないと大人になっても他者を信頼できないなど、不安やコンプレックスに苛まれるということになります。そうなると、大人になってからやり残した宿題人生、自分自身の存在を愛されるということをするのは、大変なことです。
児童虐待を受けた子どもたちがいます。私自身、社会福祉を研究しておりまして、特にこの問題は今、非常に深刻な問題です。私は昨年まで東京におりました。そのときに教会で小さなファミリーグループホームをつくりまして五人の子どもたち、特に虐待を受けた子どもたちを施設から預かっていました。五人の子どもたちは今、本当にすくすくと育っていますけれど、そこで感じたことは、本当にその人の存在、愛されるということがどんなに大切なのかということです。しかし虐待というのは非常に悲惨です。親から捨てられたという経験を、その小さな、小さな身体に引き受けないといけないからです。
ところで、私が今日考えてみたいのは、社会福祉学・心理学でいう、親からの愛というテーマではありません。ここにいる皆さんは大人ですから、今からこの愛を回復しようというのは、実は難しい問題です。しかし大人になってもやり直せること、私はここに宗教の力、信仰の力というものがあると思います。聖書はそのことを可能であると伝えています。つまりここで愛というのは、神からの愛という意味であります。愛という意味、神から愛されるという、もっと根源的なテーマになります。
生まれたときに親を選ぶことはできないわけです。たまたまその親から虐待をされた。その子どもたちに接していまして、ふと言ってはならない、思ってはならないことが頭をよぎります。「なんとこの社会は不平等なのだろう、なんと不条理なのだろう」と。しかし私は「いや、ちょっと待てよ、たとえそうであっても神からの愛は全く平等だ」と自分を納得させました。ただ問題は、それを受ける側の問題であるということなのでしょう。
私は大学に勤務する前に、名古屋のNTT東海の相談室でカウンセラーをして、多くの方々の悩みを聞いておりました。大学ではそういうことはないと思っていましたが、いやいや、大学の方がかえって学生さんの相談を含めて多いのかなと思うこともあるのです。カウンセラーとして、クライエントと接して感じていたことは、その人びとが、自分自身は本当に誰かから愛されているという確信において、その揺らぎを感じる人たちであったということです。本当に皆さん真面目で、私なんかよりよほど立派な人たちです。仕事に一生懸命勤しんだり、学生さんであれば勉学に勤しんだり、ボランティア活動をしたり。ある行為をやっているときはそれでいいわけですが、一方で、その人自身の存在そのものが愛されるという絶対的な信頼感や安心感というものを欠いてくると、活動・仕事が徐々に不安に陥って、やがてせっかく積んだ努力が、もろくも崩れていく姿が現れてくるのです。存在そのものが愛されているという土台がないと、最初は楽しかった諸々の活動・仕事が、もはや喜びではなくなって、その人にとって苦痛となった結果、思い悩んでしまうというパターンです。その人の存在が愛されるという土台があってこそ、外に向かって愛するという行動、仕事をするという行動、そしてその結果、すばらしい実を実らせることができるのではないかと思います。
私自身、社会福祉学を専門としていますから、愛すること、行動することを学生たちに鼓舞します。しかし、愛する前に、まず愛されることを知ることが大切だと思います。つまり、絶対者である神に、私たち自身の存在そのものを愛されるということ、無条件に愛されていることを知ることこそが、私たち一人ひとり、どんなに偉い人にも、子どもにも共通に、神さまから与えられた最初の宿題ではないかと思います。今日の話の結論を私なりに先に言ってしまえば、それこそがなくてはならないもの、「必要なことはただ一つ」とイエスが言われた、そのメッセージであると思います。

マルタとマリア

さてこのことを念頭におきながら、冒頭での聖書箇所についてお話しします。今日、初めて聖書を開いた方にとって、これはおかしいという印象をもたれるような感じの箇所ではないかと思いますけれども、マルタとマリアという女性の記事であります。ここでは二人の女性の対照的な姿が描かれております。女性の方は自分をどちらかに寄せて「私はマルタだ」、「私はマリアだ」と思いがちです。皆さんはどちらのタイプでしょうか。どちらが好きなのか男性に聞くと、マルタの方がいいよ、と結婚している人は大体言います。結婚していない人はマリアかなと。今日、話をしたいのはそういうことではないのですが。
二人は、イエスと親しく交流していた姉妹でありました。教会では、マリアが主イエスの言葉にしたがう礼拝者だ、マルタが神に奉仕をする姿だ、と対照的に描くこともありますけども、私はやや疑問に思いました。四二節「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。必要なことは一つだけと言っていますけれど、そうすると奉仕することを否定して御言葉に聞き従う、それだけを肯定しているようにみえ、ちょっとおかしいなと思えます。現実にお客さんがこられておもてなしをする。これはすばらしい行為です。そうしないとその家の中はどうなるでしょう。皆が足元に座って聞いていた。足元で聞いているだけでは、食事はでてこない、そんなことになります。ですから文字どおり教訓として読むと、家の中とか、教会の中、学校の中が混乱するかもしれません。
ではなぜマルタに対してイエスはこのような言い方をされたのでしょうか。皆さんはどう思われますか。難しい神学的背景など抜きに、この言葉をどう思うでしょうか。この謎を解くために、イエスの言葉に描かれている二人の女性の態度から判断しますと、二人は決定的に違うところがあるように思います。このマリアについて聖書では、これ以外にもいろんな箇所があって特徴的なことがあるのですが、私の理解では、ここで考えるとマリアは心の奥底から安心してイエスの足元に座っていたことは間違いないようです。つまりイエスに愛されているということを体感している表現ではないのかと私には思えます。いわゆるイエスへの信頼感、心からの絶対的信頼感、自分の存在そのものをイエスに受け入れられているという究極の安らぎではないかと思います。ちょうど赤ちゃんがお母さんのおっぱいを吸っている姿、宗教的には神にすがっている姿、あるいは神の一方的な恵みに圧倒されている姿、神学的には絶対恩寵とか難しい言葉になりましょうか。マリアの声は不思議にもここでは聞かれないのです。何を言っているかはわからない。ただ受け身でイエスの前に存在しているだけです。
英語で「存在する」というのは何と言いますか。「being」ですね。何もしないで、ただそこに座っている。足元に座っている姿ですね。シェイクスピアの「ハムレット」のなかに「To be or not to be, that is the question.(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)」という名セリフがあります。直訳すると「存在するか、しないか、それが問題だ」ということになります。私はカウンセラーをしていたり、大学で福祉の学生たちとつきあっているなかで、この「存在する」という感覚が、今、一番わかりにくい、あるいは薄れてしまっているのではないかと思うのです。臨床上からも学問上からも、そう思います。人間存在そのものが、そのままで飾らなくてありのまま、背伸びしなくていいのだ、他者との比較ではなくて、それでいいのだと言えるような、そんな存在感覚が失われていると感じます。
この記事のなかで、マリアが見ているのは何でしょうか。それはお姉さんのマルタではなくてイエス自身であるということです。これが実は愛されている者、信頼感のある者の典型的な姿ではないかと私は考えます。これに対してマルタはというと、ここに書いてあることにしたがいますと、いろんなことに気を遣い、何か行動することによってイエスの心を、他人の心を自分に向けようと必死になる姿です。現代的な言葉でいうと「気に入られようとする、認められたい」という姿です。マルタの心の奥底にあった姿や態度はイエスの言葉から推察されます。
「マルタ、マルタ」、聖書のなかに、二つ名前を呼ぶときは要注意です。「ペテロ、ペテロ」など思い出してください。名前を二回重ねているときは意味がある。私も子どもを叱るときに、何か言って聞かせようとするには、二度言うようにします。語調を変えて二度、名前を呼びかけます。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。マルタはいろいろなおもてなしのために忙しく立ち働いていたが、これは、彼女の深層心理に潜む日常を見事に言い当てているイエスの言葉ではないかと思うのです。先ほどの対比でいうと、マリアが「being」であったのに対して、マルタはまさに「doing」の態度です。何かをすれば条件的に認められる。その行為を喜んでもらう。逆に言えば、何かをしないと他者に喜んでもらえないのではないかという、哲学的な言い方をしますと「実存的な不安感」というものが読み取れます。
ここでの文脈を応用して考えるならば、「何かよい行為をすれば愛される」という、条件つきの愛を必死で受け取ろうとしている姿です。いろいろなもてなしのために忙しく立ち働いていたと書いています。これはそういうことです。「私だけに」というところがあります。私にも三人の子どもがいますが、手伝いを頼みましたら、最初は喜んでいても、いつもとなると「なんで私だけがしないといけないのか。私だけが」ということを言います。「お父さん、お母さん、何とも思わないの」と言うかもしれません。ここに明らかにマルタが妹のマリアと比較している姿が読み取れます。ここからマルタの不満と不安があります。「私はこれだけのことをしているのに、なぜ評価してくれないのだ」。カインとアベルという創世記の記述にもあるような、何か聖書のなかにある一つのモチーフのように思います。
たとえば、ある子どもに、次のようなことを言ったら、その子はどうすると思いますか。算数のテストで一〇〇点をとれば、あなたの存在そのものが愛してもらえる。そうでないならば、あなたの存在は否定される、と。そうなるとその子どもは、その存在の愛を獲得するためにきっと必死にがんばって行動するでしょう。考えてみれば、芸能人やスポーツ選手はそういうところがあるかもしれません。そういう状況に陥りやすいということを聞きます。そこにあるのは「根源的な不安」というものでしょう。存在そのものが受け入れられないのではないかと思う。必死でそのために行動して努力して、背伸びをしないといけない。もちろん、こう言うと、評価は必要ないのかと言われるかもしれません。決して評価不要ということを言っているわけではありません。こう言いながら私は、大学では非常に評価が厳しい教師と思われています。単位を取れると思っていたら無残にも落とされたとか。それは単純な理由です。あくまで私が期待するパフォーマンスに達していないということです。その人の存在を否定しているつもりはありません。私の授業の福祉思想・福祉哲学で三十点ですと言うと、その人は文句を言うかもしれません。それはあくまで学問のアカデミックな内容に対して評価しているのであって、その人の存在を評価すると言っているのではないのは言うまでもありません。一方で、存在の価値そのものが、社会のなかで、ある評価によって自分を獲得するために闘わないといけないとなったら、実は大変です。
マルタとマリアの二人の対照は、その存在そのものが神に愛されているという姿、あるいは神の恵みをかち得ているかどうかということであると思います。二人の能力の差ではありません。おそらく能力からするとマルタの方が目立ったのでしょう。神がこの二人を差別して、えこひいきしているわけではありません。ヨハネによる福音書一一章五節に「イエスはマルタとマリアを愛していた」という表現があります。もう一人の兄弟ラザロも含めて愛していた。ギリシャ語の言葉でアガペー、「絶対的な愛」をもって愛していたということです。ですから、イエスがマルタを憎んでマリアを愛していたということは全くありません。しかし、それをどうやって受け止めていたかの問題であったということになります。

神の愛

さて以上の話を、三つに整理したいと思います。一つめは、「神は平等に存在そのものを愛しておられる」という、基本的メッセージです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と、神が預言者イザヤを通して語られたこの言葉は、すべての人間に共通するもの、「神の愛は条件つきではない」というメッセージであるといえます。しかし世の中では、いかに安っぽい愛が語られ、条件つきの愛が語られ、「こうすればあなたは認められる、こうすれば愛される」ということで動いているのか、と私は思います。そうなれば他者が気になるのはあたりまえかもしれません。つい先ほども、私の担当している精神保健福祉実習の授業のなかで、精神障がいをもった人たちのところに実習に行った人たちが、コンプレックスや、他者と比較することで戸惑いを感じたというレポートを書いていました。「でもそれって、私にもわかるよね」と皆に共通すると言っていました。そして他者と比較して落ち込む。でも神のメッセージはそうではない。無条件に私たち一人ひとりを愛している。この基本的メッセージ、このことを、まず受け入れたいと思います。
二つめは、愛の性質としての受身性・受動性・順序の重要性ということです。コロサイの書簡のなかで「愛されている者として生きる」という表現を使っています。愛されている。愛する、アガペーという、この受身の、エガペノメノイという、「愛されているものとしてあなたは生きなさい、選ばれたものとして生きなさい」というメッセージを発しています。聖書のなかに書かれているメッセージは共通しています。ヨハネの手紙のなかにも「神がまずあなた方を愛した。だから私たちも互いに愛し合おうではないか」というメッセージがあります。存在そのものを愛される神の愛を、私たちがしっかりと受け止めるならば、もはや比較の対象ではなく、認められたいからではなくて、私たちは愛し合えると思います。
三つめに、もしこの原理を誤るならば、私たちは実は膨大なエネルギーを費やすことになると思います。なぜか。「人から得たいものは愛だ」と、ある作家は言いました。そのとおりだと思います。しかし、どれほど多くの人たちが、それに失敗し、傷ついてきた人たちと接してきたかということを思います。存在そのものが揺らいでしまったとき、悩みは深刻です。イチロー選手が面白いことを言っていました。世界一の技能をもっている彼が二〇〇〇本安打を前にして、バットを持つと手が震え、実はその打席に入る前に何度も何度もトイレで嘔吐していた、と言うのです。皆は、二〇〇〇本安打を打つということをあたりまえと思っている。でも彼は、果たして自分に本当にできるのだろうか、もしも打てなくなったら自分はどうなるのだろうかと。いや、そんなこと誰も思っていないのに、けれどもイチロー自身が思っている。イチロー選手はすばらしい選手です。自らの力でそれを克服しました。でもイチロー選手のように能力がある人ばかりではありません。認められたい症候群にかられると、一歩誤ると大変なことです。この側面で私たちは、ある面で自分たちにとって非常に大きな代償を払わないといけないことになるかもしれません。

「必要なことは一つ、神の愛への気づき」

マタイによる福音書三章一七節には興味深い言葉があります。それはイエスが公生涯をおくられるそのとき、神が発したメッセージです。それは「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」。これにはおそらく宗教的・神学的意味が深くあるのでしょう。私が今、研究しているヘンリー・ナウエンがこの言葉の意味を解説しています。ヘンリー・ナウエンはカソリックの神学者で、ハーバード大学で神学部の教授をしていましたが、福祉の介護職に転身した変わり種の人です。この人が、「神のメッセージはシンプルで『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』という、神がイエスに対して発したメッセージを私たちはすべての人に発する、またすべての人がこのメッセージを聞く必要がある」と教えています。
子どもへの親の愛もそうです。私はある経験をしました。日本人は何か照れくさくて「I love you」となかなか言えない民族です。カナダにいたときに息子の面談がありました。先生が「あなたの息子は、すばらしい生徒だ。彼は成績ももちろんすばらしい。でもそれだけではなくて彼は他者への思いやりがあって、困っている人、特に新しく移住してくる人がいたら、その人をサポートする。そういう愛をもっていて本当にすばらしい。どんな教育をしていますか」と言われたのです。私は心の中ではガッツポーズだったのです。「ヤッター、そうか」。でも私はやはり日本人なのです。何と言ったか。「いやいや、そんな」「愚息がご迷惑ばかりおかけして。先生のおかげです」と言ってしまったのです。その言葉にハッとさせられた。同じようなシチュエーションで、あるカナダ人に、私がそのお子さんを褒めると、その人は「I'm proud of him.(私はこの子を誇りに思う)」と本当に気持ちよく言ったのです。私の言葉とは全く違う。「未熟な者で、ふつつかな娘で」とか、本当にそう思っていたらそうだけれど、実はそうではない。プレゼントでもそうです。外国人の人は「あなたが気に入ると思うから選んだのよ、どうぞ」「ありがとう。すばらしい、サンキュー」と抱きしめるでしょう。日本人はいろいろなものに包んで「つまらないものですけど」。「つまらないものなら渡すな」と言われるでしょう。「つまらないものだけど」という微妙なニュアンスが、どうしても外国人には伝わらない。文化の違いと言えばそれまでですけれど。そういうことを感じました。
神は「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」というメッセージをイエスに放ったように、私たちも子どもたちに対してそのメッセージを放つべきでしょう。一つの例示として、ヨハネによる福音書のなかで一つ奇妙な表現があって、「主に愛された弟子が」という主語があるのです。「主に愛された弟子」とは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネだといわれますが、考えてみると、この言葉ほど、すばらしい自信はないです。「筆者は」の代わりに「主に愛された弟子」、つまりイエスに愛された弟子、私はイエスに愛された弟子、という名前なのです。仮にどんなにその人が悪いことをしようと、どんなにその人がつまらないパフォーマンスをしようともイエスに愛された弟子、私が探したところではヨハネによる福音書に三度、この不思議な言葉が出てきます。
「親から愛された子どもです」と言えることは、すばらしいことだと思います。冒頭に児童虐待の子どもたちの話をしましたけれど、この言葉がなくて苦しんでいる子どもたちがどれほどいるかということを、ぜひ皆さん、知ってほしいと思います。皆さんはそんなことは意識しないかもしれないけれど、「親に捨てられた」「親にいらないと言われて今、この施設にいます」と言わなければいけない子どもたちがいるということを、ぜひ知ってほしい。それと同時に、私たち親は(親になって思うのだけれど)、感情的になったり、不完全なものです。しかしここでの神からのメッセージ、「神から愛されている」というのは全くもって平等です。ちょうど今、太陽の光がさんさんと差しています。ある人は言うかもしれません。「曇っている、だから太陽はないのだ」。そんなことはないです。太陽はいつも変わらず照っています。曇っているのは太陽そのものがないのではなく雲が遮っているのです。この雲を私たちの心の状態と思ってください。神は一方的に私たちを平等に愛したとメッセージを送っています。でもそれを疑う心があります。こう話しているとちょうど、曇ってきました。しかし太陽がなくなったわけではない。私たちの心の状態は変わりやすいものです。しかし、神の愛は決して変わることがありません。
さて、私の好きな讃美歌をカナダでよく歌っていました。そのなかにこういう表現があります。「Lest I forget Thy love for me lead me to Calvary」、「イエスの愛、神の愛、あなたの愛を私は決して忘れることがないように私をカルバリに導いてください」。実は神の愛があるのに、今日はちょっと足りませんとか、そう思いがちかもしれませんが、神の愛は不変です。変わりうるのは私たちの心、雲が遮るのは私たちの闇の状態ということを、ぜひ知っていただきたいなと思います。

主我を愛す

そのメッセージを私たちは今日、このマルタ・マリアの記事を通して考えることができました。バルト、私も難しいと思いつつ、ずいぶん勉強しました。晩年のバルトがハーバード大学で講演をしたときのことです。「バルト先生の話はあまりに難しい」、「私にわかるように一言で、先生の言いたいメッセージは何ですか」と、ある聴衆の一人が聞いたそうです。そうするとバルトがニッコリ笑って、ハミングするように「主我を愛す(Jesus loves me)」という讃美歌を歌ったというのです。シンプルに「『イエスが私を愛してくれるのだ』というこのメッセージを私はあなたに伝えたい」と言ったそうです。おそらく牧師としてのバルトの心が奮い立ったのでしょう。神学者としてのバルトよりも牧師としての彼の目覚め、「Jesus loves me」、イエスがあなたを愛しているのだ、というメッセージです。
今日、ここに蝋燭が一本あります。いよいよ同志社大学でもクリスマスを迎えようとしています。このイエスのメッセージは何でしょうか。イエスが天から降りてこられ、死をもって十字架で終わり、そしてその死を通して蘇ったという、この短い生涯のなかに私たちが学ぶもの、それは「Jesus loves me」という、私たち一人ひとりを愛してくださっているというメッセージです。私たちの存在そのものを愛してくださっているのです。もはや私たちは、自分で努力して背伸びして認めてもらおうと思う必要はない。そして私たちはそれゆえに他者を隣人を本当にイエスのように愛していこう、というのが聖書のメッセージだと思います。イエスが一人ひとりを愛し、命をかけて十字架にかけられてなお愛された、その愛私たちはそれによって赦された者、愛された者として応答していきましょう。これが福音のメッセージであると私は信じております。

二〇〇七年十二月五日 水曜チャペル・アワー「奨励」記録