"Context and experience create meaning" なぜ髭をはやすのか?


「なぜヒゲをはやすんですか?」これはよく僕に聞かれる質問である。「はえるんです…」と答えている。考えてみれば、我々は常識という名の多数派の意見によって支配されてしまっていることか。コトバにそれは端的にあらわれる。例えば以下のやりとりをみていただきたい。コトバのあやだというかもしれない。しかし果たしてそうであろうか。
 「なぜヒゲをはやすのか」という質問の裏には、「あなたは他の人と違って、なぜ」という文脈(コンテキスト)が隠されている。確かに我々は誰も「なぜ髪の毛をはやすんですか?」とは聞かない。もし聞かれたら「はえるんです」としか、答えようがないからである。不思議な気がする。髪の毛もヒゲも男性にとっては自然にはえるものであるが、その対応には大きな違いがある。そこにあるのは、多数派(常識)がどうなのか、というコンテキストである。しかし冷静になって考えてみる、時代と民族によって、そのありかたは、普遍的ではないはずである。ある時代や社会では、逆にヒゲをそるということは髪と同様、屈辱の証拠であり、異端行為であった。もしヒゲをそるなら「なぜヒゲをそるのですか」と尋ねられたに違いない。現在の日本社会では、一般的に髪ははやすがヒゲはそる、というのが支配的な常識である。したがって、「なぜヒゲをはやすのか」という質問が生まれるわけである。つまり時代と状況(コンテキスト)によって、違った意味が生み出されるのである。
(注)くれぐれも髪の毛が薄くなりはじめた僕に「なぜはげるのですか?」とは聞かないで下さい!? 
 先日、ゼミの学生と一緒に、Bartlett,"A Life Story:Told Through the Voice of Dementia" 「認知症の声を通して語られたあるライフストーリー」という論文を読んだ。援助するソーシャルワーカーが認知症の「痴呆」というコトバによってある種の偏見と先入観をもっていたためにとんでもない誤解をしてしまった、という事例が記されてあったが、著者Bartlettは"Context and experience create meaning"と結論づけている。ソーシャルワークは、周辺化されていくマイノリティ(少数派)であるクライエントの「語られなかった生」を発見していくという意味において、「考古学(歴史学)的」でもある。クライエントの「語り」をコンテキストを通して発見していくこと、これが目下の関心である。
 
                                 木原活信



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